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徳川家康 [歴史]

駿河国総社 冨士新宮浅間神社
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徳川家康公は弘治元年(1555)14歳の時、浅間神社で元服式を行った。 以後家康公は浅間神社を篤く崇敬し、社殿の造営、社領の安堵、宝物の寄進を行い、天下泰平の祈願所と定めてより、歴代将軍は一貫して庇護につとめた。 中でも3代将軍家光公は、家康公の遺志をついで、寛永11年(1634年)立派な社殿を造営寄進したが、安永2年(1773年)と天明8年(1788年)の二度の火災で全焼した。
貝原益軒の見聞紀行 『吾妻路之記』
「府中より江尻へ2里29町、浅間の社有是は富士浅間の新宮なり、…当宮作り美麗なる大社なり。
日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とす」
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今の社殿は、徳川幕府の手により、文化元年(1804年)から慶応元年(1865年)までの60年余をかけて、寛永時代同様の社殿を再建した。境内は4万5千平方メートル。広壮華麗な社殿群はいずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造の大拝殿は浅間造の代表的なもので高さ25メートルあり、殿内は132畳敷きの広さがある。

本殿 神部神社(駿河国総社) 浅間神社(冨士新宮)
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浅間神社の七不思議 「鳴きうずら」
幕末の左甚五郎と言われた立川流2代目、立川和四郎富昌の彫った神部神社の『粟穂に鶉』は俗に「鳴きうずら」といい、最初は鶉の彫物であったが、夜な夜な鳴いて困るというので粟穂を彫り足したところ鳴きやんだという。

八千戈神社(元摩利支天堂)
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本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に捧持した念持仏の摩利支天を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。維新後神佛分離に際し金印木像は臨斎寺に遷され、以後、八千戈命をご際神とする。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行われた。
特に名工の誉高い立川和四朗富昌の彫物が中国の二十四の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。

賤機山古墳
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6世紀頃(1500年前)の築造とされ、円墳でその規模は大きく、県下随一の家形石棺を有し、出土品の豊富華麗なことは、東海地方に類を見ない。出土した装身具・武器・馬具・祭祀遺品等多数を、浅間神社の宝物とともに境内の文化財資料館に展示している。
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